ダシコの製造方法

ブラジルの日本人

 日本人移民は20世紀の初頭にブラジルに到来した。サントスで下船した日本 人達は、先ずサンパウロ州とパラナ州の耕地に入植し、その後ブラジル各地に 広がり、サンパウロ州海岸部、アマゾン地域からリオ・デ・ジャネイロ州にま
でコミュニティを形成した。彼らは特に野菜、フルーツや花などの栽培に尽力 し、ブラジル国の農業発展に非常に重要な貢献を果たした。都市化を経た20世 紀後半のブラジルでは、日本人が生産した生鮮食品が巧みに供給された。

リオ・デ・ジャネイロ州では、バイシャダ・フルミネンセ地域(サンタ・ク ルス、ニローポリスおよびイタグアイー)、ペトロポリス、ノヴァ・フリブル ゴ、アングラ・ドス・レイスおよび州都リオ・デ・ジャネイロに主だった日本人コミュニティがあった。日本人移民が始めて後で改良したノヴァ・フリブルゴの柿と花卉の栽培などは特に有名で、彼らは国籍に関わり無く地域の他の農 園主にも知識を伝えていった。
アングラ・ドス・レイス市の日本人移民は漁業に従事したことで知られ、イーリャ・グランデ島沿岸に複数の鰯加工場を築いた。

イーリャ・グランデ島の日本人

 リオ・デ・ジャネイロ州沿岸部のアングラ・ドス・レイスに位置するイーリャ・グランデ島は現在国内有数の観光地となっている。大陸から離れたイーリャ・グランデ島に渡る手段は海路のみで、192km2の面積と4つの自然保存ユニットを擁する同島の人口は凡そ6千人となる。ブラジルおよび世界中の観光客がビーチ、森林や穏やかな海を求めてこの地域を訪れる。

 かつて、イーリャ・グランデ島には先住民のトゥピナンバ族が暮らしていた17世紀および18世紀には海賊船の溜り場になり、19世紀にはコーヒー農園とサトウキビ農園が設けられた。20世紀に入ると、同島の経済はバナナ、農業と生活用漁業で成り立つようになった。

(クレセンテ加工場 左 とカモメ加工場、プライア・デ・マタリス。写
真:タカシおよびハルオ・イハ)

この時代に日本人移民が地域の多数の村々に移住し始めた。他の地域、特にサンパウロ州からやって来た日本人は、アングラ・ドス・レイスの海に漁業の潜在可能性を見出し、当時のイーリャ・グランデ島の主要経済サイクルであった魚類加工業の立役者となった。当時豊富だった鰯が魚類加工の主要原料に用いられた。

「鰯の加工場」として知られる加工業は市内全域に広がった。主要製品は鰯の塩漬けの缶詰で、消費地は主に東北部に集中していた。大陸部とヴィラ・ド・アブラアンの加工場所有者はギリシア、ポルトガルとイギリス系だったが 鰯加工業の大半は日本人移民とその子孫達が行なっていた。

日本人の加工場は、イーリャ・グランデ島とジポーイア島に広がり、プライアス・デ・ジャパリス、フレゲジア・デ・サンタナ、バナナウ、マタリス、パッサテッラ、マガリケサバ、ウバトゥビーニャ、ロンガ、アラサチビニャ、ヴェルメーリャ、カミランガ、アルマサンおよびプライア・ダ・ファゼンダには、少なくとも一つの加工場があった。プライド・バナナウでは六つの加 工場が稼動するに至った。

イーリャ・グランデ島の加工業は経営面でも労働面でも家内産業モデルを採用していた。日本人は家族の数が多く、家長と長男が家業の指揮を取り、他の家族構成員は結婚後に他の生業につくか他地域に引っ越していく慣わしだった
このようにしてハダマ一家はアングラ・ドス・レイス市の大陸部分、プライア・ベルメーリャのバナナウに住み着いた。同じように、ウエハラ一家はパッサテッラ、ウバトゥビーニャ、アラサチビニャおよびイーリャ・ダ・ジポーイア島へと分かれていった。

鰯加工業は地域の景色だけでなく、イーリャ・グランデ島の沿岸の村々の社会および経済的ダイナミズムにも影響を与えた。海で取れる原料に依存していたことから、加工設備は浜辺沿いに建設された。また、魚の水揚げと加工品の
出荷が保証されるよう桟橋も設けられた。イーリャ・グランデ島の港湾施設の大半はこの時代に設けられたものだ。

チネン家の設備。フレゲジア・デ・サンタナ、イーリャ・グランデ島。写真:タカシおよびハル・イハ 所蔵)

他方、「カイサラ」と呼ばれる沿岸住民は、日本人の加工業で重要な役割を果たした。それまで、島の内陸部またはセルタンと呼ばれる森林部での農業に従事していた住民の日常が海に向かうようになり、日本人と共に鰯の塩漬け作
業で働くようになった。

カルメン・テノーリオさんは、プライア・ド・バナナウの加工業黎明期のエ ピソードを語ってくれた。当時は電力も冷蔵設備も無く、水揚げ直後に魚を加 工する必要があったが、漁船の到着は予定などなく、夜間であっても鰯は捕獲
後すぐに地域の加工場に運び込まれた。このようなとき、ヒガ老人がランプを 持って丘を登り家々を回って労働者を呼び集めたものだとカルメンさんは語る老人が進むに連れて、呼び集められた労働者達は道を照らすためにランプや竹
製のたいまつを持って後に続き、まるで宗教行列のようだったという。労働者達は、浜辺に着くとたいまつを円形に置いて魚のさばき作業を始めるために集まった。カルメンさんのご主人のチアン氏は、このときには多くの光が空を交
差したものだと語る。

イーリャ・グランデ島の日本人が所有する鰯加工業は、多数の労働者を雇っていたにも関わらず家内工業の特徴が強かったが、プライア・デ・マタリスのカモメ加工場だけは違っていた。

カモメ加工場の所有者はヒルタ氏だったが、1960年代に従業員の1人クニジ・オダカ氏に買い取られ、同氏はカモメ加工場を市内で最も成功した塩漬け鰯の加工場に育て上げた。

カモメ加工場は、ほぼ完全な原料再利用プロセスを採用し、塩漬け鰯以外に塩漬けにできない魚類から魚粉を製造した。魚粉製造からは水と魚油が出たが魚油は化学工業向けに販売されていた。

1970年代から1980年代に掛けて、カモメ加工場は約150人を雇用し、1994年に閉鎖されるまで市内最後の鰯加工場となった。

新天地

飾り気の無い雄弁な言葉で1955年のブラジル到着の日を語るのはオダカ氏だ。日本人移民がたどってきた軌跡を観察しようとするとき、進展地適応の挑戦という個々人の経験に目を向ける人は少ないのではないだろうか。家族を同伴せず一人で移住したクンジ・オダカ氏は、国内の複数の農場で働いた後にイーリャ・グランデ島のプライア・デ・マタリスに住み着き、妻と3人の子供を得てブラジル国籍を取得した。しかし、生まれ故郷とは正反対の自然と文化的価値観を持つ国に移住した当初の心労は今日までその記憶に刻まれている。

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Senhor Odaka, 2016

日本人移民が経験した珍事の中で、最も身に堪えたのは食生活だった。移住者は食べ物の不満を解消するために、ブラジルでは見つからない食品を製造するようになり、フルーツや野菜の栽培以外に、醤油や豆腐といった日本食に欠かせない加工食品を製造するようになった。当初は家内消費用だった食品製造は他の日本人コミュニティをも対象とするようになり、コミュニティ向けの手工業であったものが今日ではブラジル市場でも知られた東洋食材製造業者となっている。
イーリャ・グランデ島の日本人は魚の加工に従事した。上述のとおり、この加工業の主要品は冷蔵庫を持つ家庭が少なかった時代のブラジル消費者向けの塩漬け鰯であった。しかし、塩漬け鰯以外に、日本人とその子孫は現地住民には知られないがサンパウロおよびパラナー州の日本人コミュニティで重宝されていたダシコ、またはニボシやイリコとも呼ばれる食材も製造した。
ダシコはみそ汁のダシになる燻製干し魚で、イーリャ・グランデ島では鰯が原料に使われた。ダシコは島の加工業が最初に製造した製品で、手作業で作られたダシコの売り上げにより日本人移民は加工場建設資金を得ることができた燻製鰯製造に洗練された設備は必要なく、薪の火による燻製室と日干しのための竹製のむしろで十分だった。
イーリャ・グランデ島の日本人のダシコ製造方法はシンプルだが非常に綿密なもので、タルマサ・トナキ氏とツルコ・ナカムラ氏は若い頃に多くのダシコ
を製造した。
90歳になるタル氏はプライア・デ・マタリスに健在で、共同出資者のキクイケ・イハ氏と共にクレセンテ加工場を築き上げた。加工場の操業当時そして特に加工場閉鎖後、タル氏は多くのダシコを製造しサンパウロで販売した。タル氏の長男の学費はダシコの売り上げで賄われた。
ダシコ製造のプロセスは次のとおりとなる:
1.魚のさばき作業
洗浄、頭と内臓を取り除く。
2.調理
水道水が無かった当時は海水で短時間に調理された。
3.燻製
燻製作業前の調理は魚の量が多いときだけ行なわれ、少量のときは調理作業を抜かして直接燻製に取り掛かることが理想で、これにより味が更に純粋になる。
燻製は薪で火をおこす燻製室で行なわれ、燻製室は鰯を納めた台をはめ込むことのできる引き出しが左右にある「小屋」のような場所だった。この小屋の中でおこされた火によって、1日中ゆっくりと絶え間なく魚が燻製されていた。
高熱を保ったまま密閉された室内では魚を均一に燻製することが可能だったが、間に合わせの方法で作られた自家製の燻製のときは、魚全体が燻製されているか確認しなければならなかった。台と火の位置次第では、場所を変えてきちんと燻製されるように魚をひっくり返さなければならないこともあった。
4.乾燥
長い燻製作業のあとで、竹で作られた台に広げられた鰯は凡そ3日間日光にさらされた。この作業では、均一に日干しになるように鰯をひっくり返した。
5.削り落としと出荷
最後の段階は鰯の表面を削り落とす作業で、次に、ダシコは箱詰めされてサンパウロの日本人と日系人の間で販売された。

ツルコ氏はオダカ氏と長年結婚生活をおくりカモメ加工場で働いたが、ダシコ製造はもっぱら彼女の専門で、子供達が手作業を手伝うこともあった。娘の1人のヒロコ・オダカ氏は、学校の休みの間は台の上のダシコをひっくり返して過ごしたものだと語る。サンパウロまで出荷品を運ぶのもツルコ氏で、バスの荷物入れでダシコを運びサンパウロのカンタレイラ街にある市営市場に納めた。
急速な都市化と国の発展により、小規模な農地所有者または小作だった日本人の多くが都市部に出て農業とは別の生業につくことになり、農地や漁業との関わりは薄れていった。今日、ダシコを製造する人を見かけるのは稀である。ダシコは今日でも非常に重宝されているが、ダシコ製造に必要な長い時間は現代の生活とは調和しなくなっている。

別のとき

 
このドキュメンタリー撮影のため、私達はタル氏と共にダシコ製造の各作業を再現したが作業中に多くのことに気付かされた。魚のさばき、燻製と乾燥作
業を順番に追っていくだけでなく、適当な火の強さと燻製時間を知っていなければならなず、ガスレンジではなく薪の火を使って待ち、何時間も火を見張っていなければならなかった。このようなとき、私達は自然界の基本要素のエネルギーとのつながりを回復し、自然のときは歴史のときに勝って現れ、宇宙の概念は抽象化されるのだった。
イーリャ・グランデ島の日本人移民の大半は、色々な面でイーリャ・グランデ島によく似た沖縄の出身で、コミュニティの日本人は数世紀に亘って海との
つながりを保ってきた。彼らにとって、ダシコ製造のときは海と付き合い、海がもたらしてくれる豊かなみのりを扱うときでもあったのだ。また、新天地の
海産物を使って、故郷の味を新たな世界に再現するときでもあった。
現代生活の刻々と過ぎる時間とリズムの中で、人は自己を忘れざるを得なくなり、より意味深い経験をしないことから、人間として成長する能力も制限される。このような中で、イーリャ・グランデ島に着いてタルオ氏が野菜を作り簗をしかけ、イカを日干しにし魚を燻製にする場を見るとき、私達は大都市の忙しない生活はどこに通じるものでもないことに気付くのだった。
庶民が伝統品をつくる方法は幾世代にも亘って繰り返され受け継がれてきたもので、儀式的な特徴がある。私達がダシコ製造を再現してもらったとき、ダシコ製造に生活全体の知恵が凝縮されていることが分かった。この儀式は、今日という部分的なときだけでなく、多くの時代の知恵や、この儀式を繰り返してきた全ての人々の経験が結集されている。伝統は、時代錯誤や頑迷固陋の類語ではなく、多くの時代を通じて私達に届けられる変化のための潜在的エネルギーなのだ。